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真田幸村は本当に娘を敵将に託したのか?

真田幸村といえば豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武将です。幸村には阿梅(おうめ)という娘がいました。真田幸村大阪城落城の際、娘を敵将である仙台藩伊達氏家臣・片岡重長に託したという逸話について「老翁聞書」からみていきます。

真田幸村の娘・阿梅について

阿梅(おうめ)は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評される真田信繁真田幸村)の娘です。関ケ原の戦いで石田三成が破れ、三成に協力した真田幸村高野山麓にある九度山に蟄居することになります。九度山にて信繁(幸村)は多くの子に恵まれます。1604年、阿梅(おうめ)は真田幸村の三女として生まれ母は高梨内記(真田家臣)とされています。

父・真田幸村と共に大阪城

1614年、豊臣家が京都方広寺大仏開眼供養を実施する際、徳川家康が梵鐘の銘文に難癖をつけ戦が避けられない状況になります。豊臣家は諸大名に味方になるよう使者を送りますが応える者はなく、諸国の浪人たちを呼び集めることにします。その時、九度山にも使者が送られ真田幸村は家族と共に大阪城に入城することになります。その中に阿梅もいました。

大阪城落城の混乱の中、出会った二人

大坂冬の陣にで豊臣勢と徳川勢は和睦しましたが、翌1615年、徳川勢は再び大阪城を取り囲み(大坂夏の陣大阪城は落城します。

「大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。」

大阪城落城の際、城中から16、7歳くらいの容貌美麗な女性が白綾の鉢巻をして白い柄の長刀(なぎなた)を杖つき、重綱(重長)公の前に出てきた。重綱(重長)公はこの娘を連れて帰り後室とした。』

これは仙台藩伊達氏の家臣・片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』の一文です。真田幸村の娘・阿梅と仙台藩伊達氏家臣・片倉重長の出会いについて書かれているとされています。ただここでは重長の前に現れた女性が真田幸村の娘・阿梅とは書かれていません。

智勇兼備の名将、「鬼の小十郎」片倉重長

真田幸村の娘・阿梅を連れ帰った武将、片倉重長(かたくら しげなが)は、仙台藩伊達氏の家臣です。天正12年(1584年)12月25日、伊達氏の家臣・片倉景綱の子として生まれました。大坂夏の陣では道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛を討ち取るなど名声を上げ「鬼の小十郎」と称されています。

片倉重長の父・片倉景綱は「伊達政宗の疱瘡で失明した右の目が盛り上がったため片倉景綱が小刀で突き潰した」と伝えられています。
※通称「小十郎」は片倉氏代々の当主が踏襲して名乗っています。

片倉重長

幸村の娘・阿梅を連れ帰った武将・片倉重長


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真田幸村の娘である

「誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。
                                      -老翁聞書

『娘は自分が誰の娘なのか語らなかった。その言動は凡人のものではなく、ならば太閤様(豊臣秀吉)の娘ではないかと噂されるようになった。のちに娘の家臣が訪ねてきてそのまま片倉家の臣下となる。よって娘は 真田幸村の娘と断定された。』

大阪城落城後、伊達政宗の軍勢に紛れて京都を発ち、片倉重長の白石城に入りました。
阿梅は自分が誰の娘なのか語らず侍女として片倉家に仕えていたと言われています。真田家の旧臣・三井景国が片倉家に訪ねてきてそのまま家臣になっていることからその時に娘が真田幸村の娘であることが分かったと思われます。

白石城

幸村の娘・阿梅が住んだ白石城

真田幸村が娘を重長に託したとされる根拠?

「寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。」
                                      -老翁聞書

大阪城に攻め寄った諸武将の中でも片倉は名高き武将であり、殊更この度の戦においては驚くほど目覚ましい武功をあげている。これほどの武功を上げる者は 将来は 繁盛するだろうし自分の娘は美しいので捨てたりされないだろうと幸村は申し置き、重綱(重長)公の前に出したのだろうと皆は言っている。』

ここでは実際に真田信繁(幸村)が片倉重長に娘を託したわけではなく、片倉家の家臣たちが阿梅が片倉家に来た理由を想像し語っていると書かれています。たとえ偶然であったとしても武名高い真田幸村の娘が片倉家に来たことは喜ばしいことだったと思われます。片倉重長大坂夏の陣では豪傑・後藤 又兵衛を討ち取るなどの功績を立て大いに名声を上げているので更なる名誉とばかりに真田幸村の娘・阿梅についても書かれているのかもしれません。

真田幸村が娘を敵将に託したというのは…

いかがでしたでしょうか。「老翁聞書」の一文から阿梅と重長の出会いの経緯をみてきました。そこには「真田幸村が娘を託した」という事実はなく、片倉家の「うわさ」という形で伝えられてきたことがわかりました。
他にも阿梅と重長についての逸話がいくつか存在します。「老翁聞書」に書かれている内容のその後についての逸話をご紹介して終わりにしたいと思います。

阿梅は元和6年(1620年)に重長の側室となり、正室(指月院)が死去すると継室になりました。その際、重長は阿梅を継室とするに際して真田幸村の娘であることを隠すために「信繁の妹婿・滝川一積の養女とし、滝川家から片倉家へ嫁がせた」という説と「信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁がせた」という説があります。

重長37歳、阿梅17歳の時でした。