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耄碌が引き起こした豊臣秀吉の晩年とは?

豊臣秀吉は、平民同然の立場から天下人になりあがった、日本一ともいえる出世頭で有名です。しかし晩年は耄碌し、様々な問題を引き起こして豊臣による平和な世の中を、実質的に自ら壊したといわれています。では、そんな豊臣秀吉の晩年、そしてその思惑とは?

豊臣秀吉、成り上がりまでの道のり

秀吉

 

豊臣秀吉は、戦国、ひいては日本でも有数、もしかすると日本随一の出世頭と言われています。

というのも、最初は木下藤吉郎と名乗っていました。最初は今川配下の将に仕えてそれなりに目をかけられますが、ほどなく退去。この後に織田信長に仕えるようになります。

始めは武士のお手伝いという下っ端の身分だった秀吉ですが、どんどん功績を挙げていき、ついには織田家でも有数の武将にまで上り詰めました。

その後信長の死後は残された有力武将の一人として、他の有力武将が苦戦する中でメキメキと頭角を現していき、やがて多くのライバルを蹴落としていくことで信長の旧領土のほとんどを奪取、天下最大の勢力として君臨します。

その後も関白に就任し、さらには太政大臣にまで上り詰めて豊臣政権を樹立。

その数年後には辺境に大勢力を構えた猛者たちをも打ち破り天下を統一するという大事業を成し遂げるに至ったのです。


さて、そんな豊臣秀吉ですが、その晩年についての評価は驚くほどに悪いです。というのも、様々な問題行動を起こしており、結果として豊臣家の求心力を自ら傾け、滅ぼす遠因を作ってしまったといっても過言ではないからです。

では、豊臣秀吉は具体的にはどんなことを行ったのでしょうか?


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豊臣秀吉、晩年の悪行

度重なる朝鮮出兵

朝鮮出兵

 

豊臣秀吉晩年の暴挙として、まず挙げられるのがこちら。
その行動の善悪はともかく、行ったことに対する跳ね返りはかなり大きかったとする見方は多いです。

まず、戦争は基本的に、国力を損耗するものです。そのため、計画性も突拍子もなしに仕掛けることは、国を衰退させることにもつながります。これにより大名の力をそぎ落とすという狙いがあったとの見方もありますが、最も力を持った五大老は大半が積極的ではなく、結果として火種ばかりが残ってしまったといえるでしょう。

さらには、これを皮切りに、以後は秀吉子飼いの武将らによる不和のエピソードが数多く史書で語られています。つまり現場と事務の派閥争いは、この朝鮮出兵が原因であると考えられるのです。
後々、関ヶ原の戦いでは東西における軍の分裂という形で、この不和は豊臣家に災厄をもたらしたといえるでしょう。

最晩年に重なった、大物の粛清事件

豊臣秀吉が粛清によって世を騒がせたほどの人物と言えば、千利休と、養子の豊臣秀次の二人でしょうか。二人とも最晩年に行った粛清であり、どちらも大きな影響を周囲に与えています。


まず、千利休ですが、これは二人の方向性の違いが多くの資料で語られています。一般的には、二人の芸術面のぶつかり合いの挙句、秀吉が粛清に踏み切ったという説が有名です。
他にも利休の独断行為や秀吉との権力抗争など様々な憶測がされていますが、いずれもはっきりとしていません。
ともあれ、このことで当時の武士階級からは少なからず秀吉に対する不満が上がった可能性は高いでしょう。

そして、続けての豊臣秀次の粛清については、特に豊臣秀吉の晩年を描く上で重要視されている題材であり、当時の国中を揺るがす大事件の一つでした。

というのも、秀次は秀吉の後継者であり、秀吉から関白の役職と、豊臣政権下の権力をある程度受け継いでいました。つまり、事実上豊臣秀吉の後継者として、内外から期待されていたのです。

しかし突如として謀反の疑いをかけられ、何度か出頭を命じられたのち、そのまま追放され、その後切腹するように言い渡されたというのです。

この一連の事件は、実子である秀頼の誕生が大きな原因であったのではとされています。また、この際秀次の関係者も同じく死罪を命じており、遺体は畜生塚に捨てられたというのです。この事から豊臣秀吉に愛想をつかしたような動きを見せる大名もおり、また、決まっていた後継者を強引に挿げ替えたこともあり、不穏な空気が広がったとされています。

晩年の耄碌か、権力ゆえの暴走か

晩年に行われたこれらの行動には一貫性がなく、また他にも私利私欲のためとも思えてしまうような粛清や処刑を行っていることも含め、晩年は耄碌し、かつての雄姿が替えをひそめたのではという論説があり、秀吉の晩年における豹変ぶりを語るうえで最有力の見方として長年語られています。

確かに、晩年は頑なになり暴走気味に動く人物というのは英雄たちの中には多くいて、秀吉も彼らの中の一人だとすれば、天下統一までのありようとの違いは理解できます。

また、権力を持つと人は豹変するとの言葉通り、もともと低い身分だった人物が権力を握ってしまったため、リミッターが壊れて欲望を制御できなくなったのでは、という話も聞きます。これもまた人にありがちな傾向の一つであり、決して無視できるものではありません。


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豊臣秀吉の晩年にはこんな異説も

権力者ならば患いかねない精神疾患

権力者は孤独だと、常々多くの人が言っています。

そのため、絶大な権力を持った者がパラノイアと呼ばれる疾患を患ってしまうケースも、歴史上には数多く存在します。

これは自分が絶対的な力を持っているという誇大妄想とそれゆえ多くの者に狙われているという被害妄想、さらには過剰に膨らんだ猜疑心が合わさり、非常に攻撃的で自己中心的で、異常な支配欲を持つ人格に変貌するというのです。

もしかしたら秀吉の本来の陽気さとは異なった人格も、こういった孤独からなる疾患が原因かもしれませんね。

豊臣秀吉の味方がいない?

豊臣秀吉は駆け出しのころは部下もおらず、従えている大名もほぼ全員が自身よりはるかに上の出自の持ち主でした。
そのため本当の意味での自身の味方に強力な権力者や身分の保証ができるものがおらず、そのため徹頭徹尾自身の味方となる派閥がいなかったのではという話も、少ないながらあります。

つまり晩年の暴走は自身の影響力を強めようとするが故の暴政で、強引に家中をまとめ上げる狙いがあったのではというのです。

もっとも、晩年の豊臣秀吉はその行動に一貫性がなく、本当にそうであったとされる確定的な証拠もない話ではありますが……。

終わり良ければすべて良し

真田丸 秀吉

 

豊臣秀吉の場合は、まさにこの逆を行ってしまったといっても過言ではありませんね。自身で築き上げてきた、豊臣による天下泰平の地盤を、晩年の行動で土台から揺るがしてしまい、結果として豊臣の家は滅亡するに至ってしまったのです。

結局、これらの行動の真意は闇の中。

歴史家たちによってさまざまな考察が立てられていますが、果たしてこうなってしまった動機が分かる日が来るのでしょうか?