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明智光秀の娘 細川ガラシャの子孫が有名人だらけで凄すぎる!

戦国時代に生きた女性の中には乱世にあって数奇な運命を辿った人たちもたくさんいます。明智光秀の娘で、細川忠興の妻である細川ガラシャもその一人でした。悲劇の最期を遂げた彼女ですが、幸いにも子孫を残していました。今回は細川ガラシャの子孫について見ていきます。 

悲劇の女性細川ガラシャとその子孫

ガラシャ夫人として有名な細川ガラシャ(玉子、1563~1600)。
彼女の生涯は戦国時代を生きた女性の中でも悲劇的なものでした。

明智光秀(1528~82)の娘として生を受け、早くから細川忠興(1563~1646)と結婚し、円満な結婚生活を送っていたところに父が本能寺の変を起こしたことで運命は急変しました。
「謀反人の娘」というレッテルを貼られ、夫と離されて幽閉されることになったのです。

その後、再び夫婦で暮らしだした頃に、夫に内緒でキリシタンになり、「ガラシャ」の洗礼名を授かりました。
念願が実現したのもつかの間、このころ秀吉もキリスト教弾圧を開始。そのため、忠興には洗礼を受けたことは話さずじまいでした。
さらにこのころから忠興との仲が悪くなり、夫婦生活は急激に冷え込んでいきました。

1600年、徳川家康に味方した忠興の出陣中に石田三成らが挙兵し、大坂城下の武家屋敷にいた東軍側大名の妻子を人質に取ろうとしました。しかしガラシャはこれを拒んだうえ、屋敷に残っていた家老に槍で胸を突かせて壮絶な最期を遂げました。

このようにあまりにも悲劇的な生涯を送った細川ガラシャですが、彼女の子孫はその後の時代を生き、ある者は皇室に、ある者は権力者になりました。
今回は苦労人である細川ガラシャの子孫を見ていきます。

細川忠興

細川ガラシャの子孫(1):肥後細川家

肥後熊本藩初代藩主細川忠利

細川忠利

肥後熊本藩初代藩主細川忠利。細川ガラシャの三男で、江戸時代にあって細川家が大大名として残るよう力を注いだ人物でした。


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肥後熊本藩初代藩主である細川忠利(1586~1641)は、細川忠興細川ガラシャの3男として生まれました。
関ヶ原の戦いの後に兄の忠隆(1580~1646)が廃嫡となったため、細川家の後継ぎになりました。

1620年に父忠興の隠居に伴い当主の座を引き継ぎ、1632年には江戸幕府の命により豊前小倉から肥後熊本に国替えとなりました。

肥後に移った後は肥後藩の基盤整備に力を務め、細川家が江戸時代にあって大大名として保つことにつからを尽くしました。
また、剣豪宮本武蔵(1584?~1645)を熊本に迎えたのも忠利でした。武蔵は熊本の地で五輪書を執筆し、この地で最期を迎えたのです。

細川綱利:討ち入り後の赤穂浪士を預かる

細川綱利

熊本藩第3代藩主で細川ガラシャのひ孫である細川綱利。
赤穂浪士を預かり、その最期まで面倒を見た人物として有名です。

細川綱利(1643~1714)は熊本藩第3代藩主で、細川忠興細川ガラシャから見てひ孫にあたります。

彼は忠臣蔵でもおなじみの赤穂浪士が、主君浅野長矩(内匠頭)の敵である吉良良央(上野介)を討ち取った後(1702年)、幕府の命でそのうち大石良雄(内蔵助)ら17名の身柄を預かったことでも有名です。

綱利は預かった大石ら赤穂浪士17名をもてなし、また彼らに感銘を覚えるあまり、幕府に助命嘆願と細川家での召し抱えを申し出ました。

しかし、結局赤穂浪士たちは幕府の命で切腹することになったため、綱利は彼らが見事な最期を遂げられるようにお膳立てをしたり、死後の彼らを丁重に埋葬もしました。

細川ガラシャの子孫(2):皇室にも

孝明天皇

幕末に皇位にあった第121代天皇孝明天皇
彼の生母は細川ガラシャの生んだ忠隆の娘・徳の末裔です。


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江戸時代末期、いわゆる幕末という激動の時代に皇位にあった第121代孝明天皇(1831~67)。
実は彼の生母である正親町雅子の祖先は、細川忠興細川ガラシャの長男・忠隆の娘である徳です。

忠隆は本来であれば細川家当主となるべき人物でしたが、関ヶ原の戦いの前後で父忠興と対立の末、廃嫡されました。その後に生まれた娘の徳が京都の公家である西園寺家に嫁いだために、のちに皇室とつながるきっかけが生まれたのです。

孝明天皇の第一皇子がのちの第122代明治天皇(1852~1912)。
そして、今の今上天皇はその曾孫にあたるため、今の皇室にも細川ガラシャの血筋が受け継がれているのです。

明治天皇

第122代明治天皇
近代日本を導いた天皇ですが、同時に細川ガラシャの子孫である孝明天皇を父に持つため、彼のひ孫である今上天皇にもガラシャの血が流れています。

細川ガラシャの子孫(3):評論家

細川ガラシャの子孫には、政治評論家の細川隆元やその甥・細川隆一郎もいます。

いずれも忠興とガラシャの長男である忠隆の子孫です。
隆元は、朝日新聞社の記者をつとめた後で、1947年に日本社会党から出馬し衆議院議員を1期つとめました。
政界を引退した後は政治評論家として、保守本流の立場から歯に衣着せぬ論調でお茶の間を沸かしました。

甥の隆一郎は、憲法改正の立場に立ち、「自主憲法を持たねば独立国とはいえない」という信条を持っていました。また、叔父の隆元と同様の毒舌の才能でワイドショーのコメンテーターやタレントとしても活躍しました。

細川ガラシャの子孫(4):総理大臣

細川護煕

第79代内閣総理大臣細川護煕(在任:1993~1994)は細川ガラシャの女系の子孫に当たります。

細川ガラシャの子孫には現代の日本で内閣総理大臣になった人物もいました。
第79代内閣総理大臣となった細川護煕です。

彼は細川忠興の子孫でもありますが、細川家の歴代当主の中には養子として当主になった人物もおり、血縁上ではつながっていないため、正確にはガラシャの女系の子孫に当たります。ちなみに第18代肥後細川家当主でもあります。

熊本県出身で、もともと大学卒業後に新聞記者をやっていましたが、30代で衆議院議員になりました。その後1983年には熊本県知事となり2期8年間つとめました。
その後、新党である「日本新党」を立ち上げて再び中央政界に戻ると、1993年の衆院選で大勝し、第79代内閣総理大臣となりました。彼自身の出自から「殿様総理」として広く知られるようになったのです。

彼の率いる日本新党新生党などと連立内閣を組織したことで、それまでの自民党単独の55年体制が崩壊しました。バブル崩壊で社会的な不安が広がっていた中で、先行きを期待する声にも押されて支持率は74%を記録しました。政治改革にも乗り出して政党助成金制度や小選挙区制を導入したのも彼の時代のことです。

その後細川内閣は消費税の引き上げ問題や汚職事件によって急速に支持を失った挙句、わずか9か月で退陣。細川自身も1998年に政界を去りました。

その後、2014年には東京都知事選挙に立候補していますが、落選しています。

おまけ:ガラシャの辞世の句

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

苦難の人生を味わい、壮絶な最期を遂げた細川ガラシャ
そのためか彼女の残した辞世の句からは、それを耐え忍んだ強さや潔さがにじみ出ています。


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細川ガラシャが残した辞世の句はあまりにも有名です。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
というものです。

花も人も散り時をわきまえてこそ美しい、という意味が込められたものですが、38年の人生の中で何度も苦難を味わった女性の辞世の句にしては、強さと潔さとが感じられるものです。

後の世に多くの著名な子孫を残すことができたのも、もしかするとこのような強さや潔さと関係があったのかもしれませんね。

細川ガラシャの子孫に総理大臣が!

細川ガラシャの子孫についてみてきましたが、いかがでしたか。

三男の忠利の系統が江戸時代の肥後細川家という当時の大大名の歴代藩主を輩出したというだけでも驚くべきことなのですが、もっと驚くべきことは、ガラシャの長男の忠隆の子孫が今日の皇室にもつながっているという点です。
もちろん、子孫に総理大臣がいるというのも驚きですけどね。

そういう意味では、ガラシャ浅井三姉妹の三女で江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室となったお江と同じくらいに後の天皇の祖先となったという意味でものすごいのかもしれません。
(※お江と秀忠の五女である和子は第108代明正天皇の母です。)

ちなみにガラシャ明智光秀の娘でもありますが、以上のことから考えますと今の皇室には戦国の名将光秀の血も流れているということにもなり思わず興奮しそうなのですが、まとめはこのくらいにしておきましょう。