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武田信玄は城要らず!攻撃こそ最大の防御なり

武田信玄は、自らの居住地に堅牢な、言わるる城のようなものは築きませんでした。彼にとって城とは何か、防備に当たって何が必要か、また武田信玄が住んだ城のような館「躑躅ヶ崎館」について紹介してまいりたいと思います。

武田信玄にとって城とは

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」武田信玄の家臣が書きまとめた軍学書『甲陽軍鑑』に武田信玄が読んだ歌として紹介される有名な歌です。実際に彼が読んだか不明ですが、この歌から彼の信条、姿勢が伝わってきます。
家臣及び領民との信頼こそが城である。心の結びつきがあれば建造物としての城はいらない。相手への思いやりが味方を生み、疑心は敵を生み出す。この歌をこのように解釈します。

武田信玄の城活用

武田信玄がその人生のうち、居住場所を城のような堅牢な要塞で固めることはしませんでした。
・自分の居住場所は政務をつかさどる場所であること、また居住場所「躑躅ヶ崎館」を他に移転することはありませんでした。
・それでもまさかの時敵に攻め込まれた時のための詰城を用意しました。
・彼にとって城とは、敵国との国境に建てる前線基地のようなものを指しました。

武田信玄が居住した城

城と呼ぶには規模が小さい。

城というと皆さんは、堀を巡らせ石垣を積み上げた上に櫓が立ち、城の縄張りの中央に天守閣がそびえるのをイメージされると思いますが、それは織田信長が築城した安土城以降の近世の城です。
武田信玄が居城した城「躑躅ヶ崎館」は、中世鎌倉・室町時代武家館の規模を大きくしたもので城というには少々規模が小さいようです。

躑躅ヶ崎館」の規模について

しかし、そこは武田信玄が住んだ館です。広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万㎡)あったとされています。この面積に匹敵する現代の建築物に東京ドーム(建築面積は14168坪。(46755㎡))があります。館にしては規模が大きいですね。

現在の「躑躅ヶ崎館」

現在、躑躅ヶ崎館跡は建造物は残っておりませんが、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されております。敷地内に武田信玄を祀る武田神社があります。武田信玄が居城した往時を偲ぶには残存物が少ないですが、堀及び土塁などが往時の雰囲気を留めています。

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」跡の堀

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」跡の堀

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」の堀および土塁

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」の堀および土塁

躑躅ヶ崎館」の防衛

天然の要害
躑躅ヶ崎館の北には1000m以上の山々がそびえ立ち、西と東にも峰があります。
・攻めるとしたら南の甲府盆地からになります。
躑躅ヶ崎館は南に向かって傾斜する扇状地の上部に存在します。
・南から攻めてくる敵を見下ろすことができます。
・北側に詰城である要害山城を配置し、敵が攻め込んできたときこの要害山城で籠城します。
(要害山城は躑躅ヶ崎館の北方3km程の所にあり、比高250m程ある険しい山にあります。)
以上が防衛上の利点になります。

武田信玄の「躑躅ヶ崎館」上空写真

武田信玄の「躑躅ヶ崎館」上空写真

「要害山城」跡あたりから見下ろした甲府市内

「要害山城」跡あたりから見下ろした甲府市

詰城「要害山城」跡

詰城「要害山城」跡

躑躅ヶ崎館」の歴史

武田信虎武田信玄の父)は甲斐の有力国人を次々と制圧して甲斐統一を進め、1519年(永正16)に新たな居館の築城を開始しました。これが躑躅ヶ崎館です。家臣や帰服した国人衆を躑躅ヶ崎館周辺に住まわせ、城下町を作りました。
移転の理由は、以前の居館が度々水害の被害にあうことでした。
半年で躑躅ヶ崎館に移り住んだそうです。
信虎、信玄、勝頼3代の約60年にわたって甲府躑躅ヶ崎館は武田氏の拠点となりました。

躑躅ヶ崎館」のモデル

信虎は室町幕府の将軍足利義晴とよしみを通じ、甲府の都市計画を京都の条坊を手本にしたようです。発掘調査によると当初の居館は、将軍邸である花の御所と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも花の御所の影響が窺われます。

躑躅ヶ崎館」の構造

・縄張りとしては外濠、内濠、空濠に囲まれたなかに東曲輪・中曲輪からなる城の中心となる曲輪、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(ただし、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成したものです。)等から構成されています。
・西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設が配備されています。
・2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、丸馬出が築かれていたことが判明しました。
・三日月堀は武田氏の築城技術の特徴です。籠城しやすく、攻められにくい構造で、山本勘助の考案によるともいわれています。
・内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務を執り、中曲輪は城主の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられています。

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」縄張り

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」縄張り

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」上空写真

武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」上空写真

まとめ

武田信玄甲府の地を収めていた時、敵が躑躅ヶ崎館まで攻め込んできたことは一度もありませんでした。息子武田勝頼が、長篠の合戦で敗れた後、防御に不安を感じ居城を「新府城」に移しました。その時この「躑躅ヶ崎館」は、破却されました。