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英雄、織田信長は子沢山で色を好んだ!

織田信長と云えば誰でもご存じの英雄です。妻には斎藤道三の娘で正室の濃姫、他に側室が十数人といました。側室との間に子供が二十数人もいました。正に子沢山で色を好む英雄と云えます。織田信長の子供達を調べてみました。

織田家とは

織田木瓜

織田信長の甲冑、陣羽織についている織田木瓜の織田家の代表的な家紋

織田家は戦国時代の有力な戦国大名で第50代桓武天皇を祖とする桓武平氏の氏族とも藤原氏の氏族とも云われています。
織田家は越前国織田壮を地盤とした国人でしたが南北朝時代頃に越前国守護斯波氏の被官となり、後に尾張国守護代世襲するようになりました。応仁の乱の頃には斯波氏の権威が弱まり、織田家も宗家と分家との争いが続くようになり弱体化していきました。織田信長の家系は分家として祖父織田信定の頃から織田宗家を圧迫するようになっていきました。

子宝に恵まれる織田家当主達

織田信長の父織田信秀、祖父織田信定の時から織田家は子宝に恵まれました。

祖父織田信定

織田信長の祖父織田信定には子供が10人いました。子共の中では嫡男の織田信秀岩村城女城主のおつやの方が有名です。
尾張守護代織田家の分家の生まれで重臣として織田宗家に仕えていました。織田信定の功績は津島の港を領有したことが大きく、その港で得た収益がその後の発展の基礎となりました。後に織田信長の父織田信秀家督を譲り、隠居しました。

織田信秀

織田信長の父織田信秀には子供が14人いました。子供の中では嫡男の織田信長、戦国一の美女お市の方、謀反を起こした織田信行、利休十哲の茶人織田長益が有名です。
織田信秀は経済感覚に優れ、戦上手でも知られています。尾張守護代織田家の臣下でありながら卓越した手腕により主君である織田宗家を傀儡化しさらに織田宗家の主君尾張守護斯波家までも傀儡化し尾張の実質上の支配者となりました。成り上がりゆえに敵対勢力も多く、今川義元等と争い続け次第に追い詰められ1552年に志半ばで亡くなりました。

織田信長

織田信長と正室濃姫との間に子共はできませんでしたが側室10人との間には子供が22人いました。息子が12人、娘が10人といました。また、実子ではありませんが養女が6人いました。織田信長の事跡はみなさんご存じだと思いますのでここでは省かせてもらいます。


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織田信長の息子達

織田信正

長子として生まれるが庶長子として扱われる。一般的には子供としても認知されていなかった。30過ぎに出家して90過ぎまで長生きをします。

織田信忠

織田信忠

織田信忠は嫡男であり数多い子供の中で一番優秀だった。

生駒吉乃との間に長男として生まれます。後に正室濃姫の養子となって嫡男となります。
織田信長に従って各地を転戦して武功を積み重ねて1576年に尾張、美濃の2国と家督を譲られます。さらに1577年、松永久秀討伐時から織田信長の代わりに総帥としても軍団を率いるようになります。1582年、甲州征伐では5万の兵を率いて弱体化したとはいえ武田家をわずか数ヶ月で滅亡させます。この武功により一癖も二癖もある織田家重臣達から後継者として完璧に認められました。本能寺の変では織田信長と共に京都に滞在し妙覚寺で宿泊中に織田信長討ち死にの報を聞き、あっさりと自害します。

織田秀信

織田信忠の嫡男で本能寺の変後の清洲会議で織田家の家督を継ぎますが実権は羽柴秀吉に奪われます。関が原の戦いでは西軍に付いたため、改易されて子を残さずに亡くなります。織田信忠の家系はここで途絶えてしまいます。

織田信雄

生駒吉乃との間に次男として生まれます。
1569年、北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となり北畠家家督を継ぎます。本能寺の変後の後継者争いでは最終的に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れて、大減封されてしまいます。徳川政権下で宇陀松山藩5万石を安堵され明治時代まで大名として存続します。織田信雄の家系が現在でも織田家当主として続いています。

織田信孝

側室坂氏との間に三男として生まれます。
1568年、伊勢国北部を平定した際に、神戸具盛の養嗣子となり神戸家の家督を継ぎます。本能寺の変後は柴田勝家と共に賤ヶ岳の戦いで敗れて自害します。

羽柴秀勝

側室静観院との間に四男として生まれます。
1576年に羽柴石松丸秀勝を亡くした羽柴秀吉織田信長の子を養嗣子として貰い受け実子と同じ名を与えます。1585年に亡くなります。

織田勝長

側室(母は不明)との間に五男として生まれます。
岩村城城主遠山景任が亡くなった後、遠山家の養嗣子となり家督を継ぎます。武田家に占領されると武田家の人質となり、後に織田家に返還されます。甲州征伐では兄織田信忠と共に攻め入ります。本能寺の変では二条御所明智光秀に攻められて亡くなります。

その他の息子

織田信長にはその他に六男の織田信秀、七男の織田信高、八男の織田信吉、九男の織田信貞、十男の織田信好、十一男の織田長次と6人の息子がいました。
フィギュアスケート選手の織田信成氏は七男の織田信高の子孫と言われています。

織田信長の娘達

五徳

生駒吉乃との間に長女として生まれます。
松平元康(徳川家康)の嫡男松平信康の正室として嫁ぎます。夫松平信康と姑築山殿とは不仲であったとされ最終的に松平信康切腹事件で織田家に戻ってきます。本能寺の変後は次男の織田信雄羽柴秀吉徳川家康の庇護の元、1636年に亡くなります。

相応院

側室の養観院との間に次女として生まれる。
臣下である蒲生氏郷の器量の良さを見抜いた父織田信長が相応院を与えて蒲生氏郷を娘婿にします。蒲生氏郷会津92万石の大大名となるが早逝します。後継ぎの息子、孫も早逝してしまい、蒲生家は無嗣断絶してしまいます。晩年は京都で一人寂しく1641年に亡くなります。

その他の娘

織田信長にはその他に三女の上野御方、四女の永姫、五女の報恩院、六女の於振、七女の源光院、八女の月明院、九女の三の丸殿、十女の鶴姫と8人の娘がいました。


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まとめ

織田家は22人も子供がいて兄弟姉妹が14人、叔父叔母が10人と親戚だらけというすごい家系でした。
現代まで織田家当主として続いているのは次男の織田信雄の家系で明治時代まで大名として存続していました。その他に織田家として残った家系は七男の織田信高、九男の織田信貞の系統です。また、途中で名跡が変わった家系、女系も含めると織田信長の子孫はたくさん現代まで残っています。天下統一は成らずとも織田家の血を後世にまで残し、祭祀を絶やさなかったという点でも織田信長はやはり偉大な英雄でした。