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伊達政宗のオッドアイは本当なのか?疑惑を徹底解明

独眼竜と呼ばれた片目の武将、伊達政宗。今日では、「伊達政宗オッドアイだったのではないのか?」と言う説も出て来ているようなんです。果たして、伊達政宗オッドアイ説は本当なのか?調べてみました。

伊達政宗とはどんな人物?

伊達政宗

まずは、伊達政宗の経歴を簡単に紹介してみましょう。
永禄10年8月3日、伊達氏第16代当主である、伊達輝宗と、その正室であり最上義守の娘、義姫(最上義光の妹)の間に生まれます。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。
17歳の時に伊達家17代目当主に就任すると、武人としての才能を開花させ、
1585年から1589年にかけての「人取橋の戦い」・「大崎合戦」・「摺上原の戦い
を経たのち、奥州南部を平定する事に成功しています。
しかし、豊臣秀吉の手により、その時に手に入れた領地をほぼ全て奪われ、更には切腹の危機にも遭ってしまいます。それを持ち前の度胸の高さと知恵で回避した後は、秀吉の臣下として朝鮮出兵(文禄の役)にも従軍しました。
秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方をし、西軍方の上杉家家老・直江兼続を牽制。
1601年に仙台城を築城し、初代仙台藩主として君臨し、その後は諸外国との交流や領地の開発・発展に力を入れ、1636年に死去しました。

4歳の時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世では「独眼竜」とも呼ばれ、今日でも様々な媒体に登場しています。

伊達者!?伊達政宗の人気の理由

伊達者

では何故、今日でも伊達政宗は人気があるのでしょうか?
考えられる理由は何点かあります。

まずはその名前や、兜、そして何と言っても、その眼帯の格好良さがまず挙げられるでしょう。
また、その見た目のインパクトだけではなく、その破天荒な「生き様」にも魅力が溢れています。
その逸話で一番有名な話と思われますのが、豊臣秀吉が小田原(北条)攻めを行う際に、彼が白装束で参陣した時でしょう。先述した豊臣秀吉にまつわる「切腹」の話になります。何故、伊達政宗切腹の危機にあったのか?その理由は、当時の伊達家と北条家との同盟関係があったため、伊達政宗は秀吉に従って小田原攻めに加わるか、それとも北条に加勢して豊臣勢と戦うのか?
その決断を強いられ、政宗はかなり迷った後、秀吉側に加勢することを決断しますが、迷う時間が長かったことから、秀吉の怒りを買いかけてしまいます。
そこで政宗が取った行動が、秀吉との謁見の際の服装として、なんと全身白装束に身を包み、丸腰で秀吉の前に現れたのです。
「遅れてしまったお詫びとして、死ぬ覚悟はできている。」
と言うパフォーマンスを秀吉に見せつけ、同じく派手好きの秀吉に気に入られ、結果、政宗は切腹についてはお咎め無しとなりました。

他にも、豊臣秀吉によって京で開かれた朝鮮出兵の出陣式で、伊達の軍勢が着用していた戦装束がきらびやかだったことから、「伊達男」(派手でおしゃれな男性)と言う言葉が、定着したと言われています。

武将としてただ「強く破天荒」なだけではなく、「お洒落」で「格好いい」。
そう言った彼の生き様が、今日まで続く、彼の人気の秘密なのではないのでしょうか?

大河ドラマ

独眼竜政宗

独眼竜政宗(1987年:NHK)
伊達政宗を主役とした大河ドラマ
NHKの行ったアンケート調査では、最も好きな大河ドラマに輝いています。

ゲーム

BASARA

戦国BASARA(カプコン)
こちらの伊達政宗はかなり破天荒に磨きが掛かっていますね。
若い世代の人気を鷲摑みにしています。

これだけ老若男女に人気のある伊達政宗は、今後も様々な媒体に登場していくものと思われます。
彼の人気の高さが伺えますよね。

オッドアイとはどのような物か?

オッドアイ

伊達政宗オッドアイ説について話を戻しますが、そもそも「オッドアイ」とはどのような物なのでしょうか?
オッドアイとは、虹彩異色症(こうさいいしょくしょう)のことを指します。
「左右の眼で虹彩の色が異なる、もしくは、一方の瞳の虹彩の一部が変色する形質」のことです。
簡単に言ってしまえば、「左右の瞳の色が違う」と言うことです。
非常に稀な症状で、人よりも犬や猫が発症する場合が多いと言われています。
基本的に遺伝子疾患と言われていますが、病気や事故によって後天的に発症することもあり得るそうです。
伊達政宗は先述した幼少の頃の病気から、後天的にそのような状況になった…と言う可能性もありそうですね。
歌手のデヴィッド・ボウイさんや、女優の奥菜恵さんもオッドアイの持ち主です。

何故オッドアイと言う説が?

何故、伊達政宗オッドアイだったと言う話が出て来たのでしょうか?
この理由の発端は、昭和49年に空襲によって破壊された伊達政宗のお墓である、瑞鵬殿を再建する運びとなった際、それに先立ち墓室の発掘調査が行われたことがきっかけとなりました。

お墓

何故、伊達政宗オッドアイだったと言う話が出て来たのでしょうか?
この理由の発端は、昭和49年に空襲によって破壊された伊達政宗のお墓である、瑞鵬殿を再建する運びとなった際、それに先立ち墓室の発掘調査が行われたことがきっかけとなりました。
その際に伊達政宗の遺骨も回収され、保管されていたのですが、その骨のDNA鑑定の結果、「彼が天然痘で右目を失っていない可能性が高くなった」からです。
そこから、「伊達政宗は実はオッドアイだったので、眼帯で片目を隠していたのではないのか?」と言った話が出てきたものと思われます。

書物

また、他にも性山公治家記録と言う書物には、
伊達政宗の母である義姫が政宗を懐妊する前に、
「白髪(銀髪?)の僧侶が義姫に対し“あなたの腹を貸して欲しい”と言った後に政宗を身籠もった」
という記述があったことや、伊達政宗自身も後年ヨーロッパとの交流を行っており、外国人の側室もいたと言われています。

そこから「伊達政宗は実はハーフだったのでは?=オッドアイの可能性が」
と言った説が浮上してきたのでは?と、思われます。

実際に伊達政宗を検証してみよう

では本当に伊達政宗オッドアイだったのでしょうか?検証してみました。

ハーフだからオッドアイだったのでは?

骨

この答えは、先述した伊達政宗の遺骨の鑑定結果から正式に否定できます。
伊達政宗の頭蓋骨には、耳部分に「外耳骨腫」と言われる瘤が発見されており、東北地方の古人骨に見ることができる特徴です。
これは、「政宗の体内に東北人としての血が濃く受け継がれている」ことを物語っています。

伊達政宗の側室に外国人がいたから?

側室

この外国人の側室の話は、山岡荘八氏の超長編小説である「徳川家康」(山岡荘八歴史文庫)に登場する、伊達政宗の架空の側室マリアが元となった話のようです。
実際、伊達政宗には7人の側室がいたとされますが、記録に残っている彼女らは、すべて身元の確かな武士の娘と言われています。

伊達政宗の眼帯の秘密?

眼帯

そして、極め付けと思われる説なのですが、
実は昔に描かれている伊達政宗は、眼帯をしていません。

伊達政宗=眼帯と言うイメージが定着したのは、恐らく先に挙げたNHK大河ドラマである、「独眼竜政宗」からであると思われます。
その根拠として、瑞巌寺伊達政宗公甲冑倚像や、東福寺霊源院所蔵の伊達政宗肖像には、伊達政宗の眼帯は描かれていません。

つまり、「オッドアイのため、右目は眼帯で隠していた」と言う説は、ここで崩れることになるかと思います。ただし、右目については何らかの特徴があったのは確かなようで、どの肖像画でも右目については小さく書かれていたり、仙台市博物館所蔵の伊達政宗像に描かれている伊達政宗は、
右目を黒目になっていたりといった特徴がみられます。

今回の検証結果は、このようになりました。
現代の科学では、伊達政宗の瞳の色までは判明できかねますが、いずれ時と共に、その謎も解明されていくと思われます。
もしかしたら、後年、これらの説が一気に覆る…なんてこともあり得るかもしれません。

伊達政宗オッドアイについてのまとめ

伊達政宗まとめ

いかがでしたでしょうか?
強いだけではなく、その華やかさで、現在もその人気が衰えない伊達政宗
その魅力を更に引き立てる可能性を秘めた、伊達政宗オッドアイ説。
現代の科学では、伊達政宗オッドアイだったかどうか?の明確な答えは出せないのが現状です。
しかし、技術の発達によって、今後この説の真偽は明らかになっていくものと思います。

それまで我々は、「もしかしたらオッドアイだったのかもしれない…」と言う希望(願望?)を持ちながら、その結果をゆっくりと待つとしましょう。